排他的と協調的
書いていて思ったけど、普段の生活で「排他的」という言葉を使う機会ってあまりなくないかな?「自分や仲間以外の者を排斥(はいせき)する傾向のあるさま」って、どんなさまだろう?「排斥」(僕はハイソって呼んでました、はい)の意味は、「受け入れられないとして、押しのけ、しりぞけること」。むむむ。なんだか争いごとのニオイがしてくる。外国人、移民、日本製品不買とかが僕の中で言葉から浮かんできたイメージ。歴史や文化の背景もあるし、根が深い問題な印象もあるかな。
そこから連動してレイシスト、レイシズム、ヘイトスピーチ、同和地区問題、も浮かんできた。差別的な事柄も絡んでくるかな。
嫌だと思うことはいけないことなのか
最近の風潮として「人を嫌ってはいけない」というのがあると思うんですよ。「あいつ嫌い」って言うやつがダメなやつみたいなね。本当にそうかな?嫌いなやつは嫌いって思ってもいいんじゃないのかな。思うことは自由だよね。受け入れがたいわーと思うのはありなんじゃないのかな。
嫌いだと思うことは自由だし、そこで「なんで自分はあいつが嫌いなのか」と分析することはいいと思うんですよ。なんで自分はそこに反応するのかなって。思うところまでにしといて、そいつに何かを仕掛けだしたらアウト。押しのけだしたらダメかもー。嫌いなものを好きになる努力はいらないけど、ケンカはしなくてもいいよねって話。努力なんかしなくても、何がきっかけで関係性はどうなるかなんて分からないしね。
対立してても協力はできる
協調 (名)
①力を合わせて事をなすこと
②利害の対立するものが、力を合わせて事にあたること (大辞林調べ)
排他的の対義語として協調的があるけれど、協調的って仲良くやるってことではないよね。そして相手を好きになれとも書いていない。相手を好きじゃなくても、力を合わせることはできるし、目指すゴールに向けて一緒に走ることはできる。嫌いだから顔を見るのもイヤ、であったとしても、隣にいないで離れればいいと思うし、嫌いだから足を引っかけてやれってことではないよねってこと。好きにならなくてもいいからケンカしない方法を学ぶこと、ワークショップはその学びの場でもあるのだと思う。